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[本]沈黙の宗教 - 儒教

「生きることは楽しい」これを肯定する世界観をもつ儒教。

この本に書かれている見地に立つと、東日本大震災での日本人の行動。 われわれには当たり前である秩序を護ること略奪が起きないとが、 なぜ他の国では驚異として見られるのか。その理由がこの本を読むと透けて見える気がする。

著者 加地伸行  ちくま学芸文庫

この本は、黴くさい道徳と思われがちな儒教の宗教性に着目し、 布教をしない「家の宗教」として儒教をとらえなおした本。

道徳って、行動の善い悪いを規定するものだから、 当然、背景にはその善い悪いの判断基準となる思想がありますよね。 思想は、その背骨として多かれ少なかれ信仰を持つものだから、 儒教が宗教性をもつというのは考えてみれば当たり前の話なんですよね。

で、この根源である宗教性を明確にすることにより、 現代にも通じるように儒教を再構成するという野心的な企てです。

まず、第一章で、日本人が大好きな霊能者やスピリチュアルの話と、 本来の仏教の考え方である輪廻転生はかみ合わないという話から、 日本式の仏教に取り込まれている儒教の死生観を浮かび上がしています。

 死生観とはそう、死んだらどうなるかです。 たしかに本書で指摘されるように仏教でいう生まれ変わりを純粋に信じるのならば、 おじいちゃんおばぁちゃんの霊が孫を見守ることはないし、草葉の陰から見守ることはないと。 また、死ねば皆仏になるのならば、 ねぇ。大抵の人は多生の難はあろうと葬式をするときは善人のようなことしか言われないから、 あの世=天国に行ってるような気がしません? しかも、仏様という尊い存在になりながら年1回お盆にこの世に戻ってくる・・・というか、 仏様はこの世のこともお見通しじゃなかったっけ? こんな矛盾から、日本を始め東アジアで信仰されるために、本来の仏教から変質した部分。 言い換えれば、土着の宗教であった儒教と融合した部分を明確にしていきます。 個人的には、ここの指摘はめちゃくちゃ見事。 いままで自分の宗教はと聞かれたら、なんとなくの仏教徒か、八百万の神的なな精霊信仰かと思って他のですが、 この本読んでたら、儒教と断言しても間違いないだろなという気分になりました。うん、おいらってとっても洗脳されやすいや。 だって、生きること=この世は楽しいととらえているからこそ、死んでもまだこの世に帰ってきたい。 帰るというと語弊があるならば、生きている人たちに供養してほしい。今風に言い換えれば、記憶しておいて・語って欲しい。 死んで天国に行くよりも、生きている人たちに、自分の生き様を語られることに価値があると思うのは真実ですから。

 脱線はさておき、この本の中で儒教そのものとは別に、この視点は利用出来ると思った事が2点あります。 一つは中国的な即物感であり、一つは神と個人の関係から導き出された個人主義です。 前者は、民族の思考はその民族の使う言語の性格や組み立てに追うところが多いとして、 表意文字としての漢字から「はじめにものありき」の中国的な世界観。 まさに、万物の世界としてのもののとらえ方に触れています。 確かに世界を知覚できるモノとしてとらえている人にとっては、 見えないし知覚できないけど有害なモノは、幽霊と同じようにパニックを起こしかねないほど、 怖いモノになるんだろうなぁとかね。つい思ってしまいました。 また、後者は唯一最高絶対神への畏れとそれと対峙していく上での個人主義。 一人一人がそれぞれ自分の心に、神に畏れを抱き神を意識する。 当然その文明では、モラルとは個人個人が直接神に問いかけられることであり、 神への畏れを持って利己主義にならない個人主義となりえるのだろうなと。 うちらは日頃の生活のなかで、キリスト教文明から意味を輸入した言葉、 自由とか権利とか平等とかを当然のように使ってます。 しかし、キリスト教文明が個々人の神の畏れをもとにした文明である以上、 これらの言葉ももともとは前提として神の畏れが入っているはず。 複雑な議論をしなければならないときほど、この抜け落ちた前提が重みをもつのではないか。 こんな事を考えてしまいましたですよ。

まぁ、儒教というと堅苦しいイメージがありますが、この本はそんなに知識もいらずに読めるし、 本なんて読んで気に入ったところだけ覚え解けばいいはなし。
んなわけで、共生の幸福論としての儒教。はじめてみませんか?

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